「え、え、たばこ? 篠森先生ってたばこ吸うんですか? いや、もう大人ですもんね……! べつに悪いわけじゃなくて、意外というか……! あ、でもちょっとかっこいいかも……あ、私のことは気にしないでください! 受動喫煙とか気にしないですし、吸い終わるまで背中向けててもいいですし! あ、でも……先生のたばこって煙が出ないんですね。そういうのって電子たばこっていうんでしたっけ?」
木曜日の放課後。
いつものように桜館の屋上に向かった私は、重い鉄の扉を開けた途端に視界に飛び込んできた予想外の光景に一度息を飲み、
「あぁ、君か」
といつもと変わらない笑みを浮かべた篠森先生に、息継ぎなしで一気にそう捲したててしまった。
「相変わらず君は……にぎやかだな」
「だって!」
手を伸ばせば指先が届く位置に近づいて、唇から覗いた灰色の棒をじっと見つめてみる。
先生からはたばこの臭いもしないし、吐息に白い煙が混ざっていることもない。つまり、先生の咥えているものは、たばこじゃないのかもしれない。だからと言って、キャンディの棒にしては太すぎる気もする。
「君も、一本どうだ?」
ジャケットの胸ポケットから先生が取り出した紺色の箱は、まさにコンビニのレジ奥に並ぶたばこそのもの。
表面には3本の紙たばこの絵がプリントされている。
「……君が秘密にできるなら、だが」
「え、あ……」
教え子にたばこを勧める教師……なんて、そんなゴシップは先生には似合わないし、生徒からの贈り物一つ受け取らない彼がそんな禁忌を侵すわけがない。
いや、そもそも校内で教師がたばこを吸うなんて、彼の倫理が許すわけがない。
つまり、先生が勧めるこれはたばこではない、ということだ。
論理的な結論が出たところで、私はもう一度、差し出された箱に目を向ける。
たばこの絵と「シガレット」の文字。
……やっぱり、これはたばこだ。
コンプライアンス的にはたばこではないはずだけれども。
視覚情報は100%たばこだ。
きっと、先生は試しているのだ。
ここで私がちゃんとお断りすることを。
だから手を伸ばしちゃいけない。
しっかり「ダメです」って言わなきゃ。
そう覚悟を決めて、顔を上げた途端。
「本当に君は、思い込みが激しくて、詰めが甘いな」
ぷはっと吐き出された息に混ざったミントと甘いココアの香り。
上機嫌に笑う先生の告げた言葉の意味が分からず首を傾げた私に見せつけるように、彼は咥えたたばこに歯を立てて、ガリっとかみ砕いた挙句、表情一つ変えずにそれをごくりと飲み込んでしまった。
「え、あ、あれ?」
さすがの私も、ここで「先生がたばこを呑み込んじゃいまいた」と救急車を呼ぶほど馬鹿じゃない。
ちょっと情報を整理しようと、改めて彼の手のひらの上の箱に目をやれば。「シガレット」の前に「ココア」と書いてある。
「ココアシガレット……?」
「あぁ、ココアとミントで作られたラムネ菓子だ」
先生の細い指が、箱の中から取り出した灰色の棒はよく見れば紙たばこというよりはチョークのようで、細長いラムネと言われれば納得の質感だ。
「だから、ほら。安心して食べなさい」
差し出されたラムネ菓子にかじりつくと、先生はほんの少しだけ眉を動かして。
「あまり行儀のいい食べ方とは言えないな」
と、困ったように甘いミントの息を吐いた。
「先生だって、生徒をだますなんて節度ある対応とは言えないと思います」
「すまない。……昔、自分が高校生だった時に、この学院の音楽コンクールの担当だった教師に同じことをされてね。つい、君をからかいたくなってしまった」
それから先生は、箱に残ったラムネを一本、口にくわえて。
「内密に」と言い置いてから、高校生の頃。この屋上で起きた銀河くんも知らない秘密を教えてくれた。